Memoria de los Libros Preciosos

続きを読むとクリティカルなネタバレがあります

永井均『<子ども>のための哲学』  ★★★☆

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス
<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス
永井 均
 子どもの哲学の根本問題は、存在である。森羅万象が現にこうある、というそのことが不思議で、納得がいかないのだ。

 青年の哲学の根本課題は、人生である。つまり、生き方の問題だ。いかに生きるべきか――このひとことに青年の問いは要約される。

 大人の哲学の最重要課題は、世の中のしくみをどうしたらよいか、にある。生き方や人生の意味とは別の、社会の中での行為の決定の仕方が問題になる。

 老人の哲学の究極主題は、死であり、そして無である。それを通じてもう一度、子ども時代の主題であった存在が、もんだいになるだろう。

 本書ではタイトルどおり子どもの哲学を取り扱う。「ぼくはなぜ存在するのか」「悪いことをしてなぜいけないか」。誰しもが疑問に感じたことがあるのではないだろうか。
 高校の頃、聖書の授業で「私は××(性質)である」というのを十枚の紙切れに一つずつ書きなさい、と言われた。××に入るのは名前でも好きなものでも何でも良いとのこと。それが終わると、自分にとって大事な順番に並び替えろという指示。私は「私は○○(本名)である」の紙を一番にしたんだけど、それを見た友達が「そんなに自分の名前が好きなの?」。いや、確かに自分の名前は好きだけど、そうじゃないだろう。私が私であるということを、最も的確に定義しているのが名前だと思ったのだ。「私は○○が好きだ」とか「私は大雑把だ」とか、そんなもんじゃ足りない。その時はそれがうまく説明できなくて誤魔化してしまったのだが(ちなみに授業の目的は覚えていない)。
 でも、名前だけじゃもちろん私が「私」であるということには足りない。何で私に生まれてきちゃったんだろう? 何で私はあの子じゃなかったんだろう? どうしてあの子にはなれないんだろう? そう考えたことは数知れないが、絶対に私が「私」以外になれないことは直感的に分かっている。私は、私という視点が「私」と他人を区別してると思ってた。それが、<奇跡>? でも、それって「魂」であって<奇跡>とは違うの? 難しいー。
 P85の、「自我同一性に関する、永井・榑林説」も、途中までは頷けた。私の記憶云々じゃなくて「私」が苦痛を受けたくないのだ。六段階の、身体も記憶も交換してしまうってことは、私が他人になるってことじゃないのかな。「私」は移動できないのかな。他人の身体に他人の記憶でも、「私」なのかな。それって一体「私」なんだろうか?
 それ以降はあまり理解できていません(笑)
 悪いことをしてはいけない、という方は私もぼんやりと同じようなことを考えていた気がするようなしないような。こっちの方が筆者の言う通り断然簡単ですね。
 んでもって自分の行動は自分で決定する限り人は我がままと言えるのよね。私は他人に自分をワガママだと言うけれど、どちらかといえば八方美人と称されることが多いのは(笑)その方向に持っていくという意図のもとに行動を決定しているから。私はそれをワガママと言ってはいけなかったかな。ワガママに見えないように我がままであるというか(笑)わけわかりませんね。
 自分がなぜ存在するのか、考えていると段々病んでいきそうで怖いなあ。それこそ自殺しそうだ。